原作破壊の考察


 ヒットした小説、マンガ、ゲームが映画、アニメ、ドラマ化されうことは多い。だが内容が原作とかけ離れ原作ファンが暴徒になることもあります。出来がよければ評価する人も多いが、往々にして出来が悪い。同じことを考えている人は多く、「原作破壊」で検索するとかなりヒットする。ただネットの性格上アニメばかりにふれているので、ほかのジャンルにもふれながら考察してみることにしました。おかげで僕が生まれてないころの作品がかなり入ってます。

原作が長い
原作が短い
予算不足、技術不足
実力不足
無理な労働環境
原作が映像に不向き
原作の印象が強い
古い作品のため現代性を盛り込む
商売優先
続編につぐ続編で、原作から離れてしまう
大人の事情
原作が未完結であっても完結させられる
無理に盛り上げる
1クールの制約
原作がマルチエンド
原作の知名度だけがねらい
オリジナリティーをだしすぎる
例外、原作に忠実過ぎて失敗



原作が長い


 ボリュームのある長編をメディア化する場合、愚直に作れば何時間もの大作になるし、製作費用も膨大になる。NHK大河ドラマのような長編向きの手段はそうあるわけではない。
 結果《デューン/砂の惑星》のように原作のあらすじの映画化となる。このパターンではストーリははしょりがち、展開は強引、キャラが何を考えて行動しているのかわからないので感情移入できなくなる。結果、原作未見の人には理解できず、原作ファンは失望することになる。実際、映画デューンの興行成績は失敗だった。
 逆に、ストーリーの一部をメディア化する方法もある。実力のあるクリエーターにかかれば成功することもあるが、嫌う人は嫌う。


原作が短い


 F.K.ディックの短編「追憶売ります」が「トータルリコール」として映画化された。短い原作を映画にするためディックの他の作品『ユービック』『火星のタイム・スリップ』『ブラッドマネー博士』からネタを借りていた。見ているこちらは元ネタ探しで楽しめたが。結果、映画は原作の雰囲気から遠いシュワルツネッガーの暴れるアクション映画となった。でも原作はそこまで手間をかけて映画化するべき作品か? せいぜいオリジナルの脚本を一から書いて製作時間をかけるより、既成のものを使って早く仕上げたいぐらいの意図しかみえない。
 ほかにもマンガの連載開始から一年ぐらいでアニメ化の話がきたとする。話のストックが少ないためオリジナルエピソードやオリジナルキャラで水増しすることになる。何年かたち原作のストックがたまったころには、原作とアニメの内容、雰囲気はずれまくっている。これは悪意や実力不足とは無縁の現象でしかたない面はある。例を挙げると日本テレビ版ドラえもん。


予算不足、技術不足


 《漂流教室》は何度か実写になっている。でも原作に忠実に作るなら演技力のある子役を何十人、何百人もそろえる必要がある。そんなのは無理なので、登場人物を少なくしたり、年上にしたりとどんどん原作からはなれていくことになる。
 モノクロ実写版の鉄腕アトムと鉄人28号も当時の技術では無理だった。まあ、ゴジラなみの予算をかければ可能だったもしれないが。原作の魅力は失われ失笑するしかなく、なつかしのテレビ番組特集ではお笑いのネタになっている。

実力不足


 《CASSHERN》の反応はみな「映像はすごいけどわけがわからん」。絵の描きかたしか知らない人が無理にマンガを描いたと思えばわかりやすい。原作物ではないけれど映画《FINAL FANTASY》も《CASSHERN》と似た評価だった。
 アニメでも下手な人間が作画を担当すると原作とは似ていない悲惨なキャラになる

無理な労働環境


 ドラマはテレビ局が製作会社に丸投げ。アニメは海外のスタジオに丸投げ。ゲームは小さな製作会社に丸投げ。よくある話だが、製作者と発注者の間に何社も介在し直接作る人間は安い金で働くことになる。下手をすれば末端の会社は安い仕事を大量にこなして金を稼ごうとするのでプロレタリア文学の題材になってしまうことすらある。現場のモチベーションは低い。給料の安いぶん腕のある人材もいつかない。立場が弱いぶん納期もシビア。連絡が密でないこともある。こうして絵の質が荒れ、物語の構成がおかしくなり、黒歴史となる。

原作が映像に不向き


 アルフレッド・ベスターのSF小説『分解された男』(原題はDemolished Man)。内容はテレパシーを使うエスパーが社会で活躍する時代にいかに完全犯罪をおこなうかという話。それが映画化されたときの題名が《デモリション・マン》。なんで分解された男が分解する男になる!? 内容もテレパシーとは無縁の、シルベスタ・スタローンが暴れるアクション映画だった。そもそも原作通りのテレパシーでのやり取りは映像にしにくいのだ。原作の魅力を理解して作っているとは思えない。
 漱石の『坊つちゃん』も何度か映画化されている。だが原作の魅力は生きのいい主人公による一人称のテンポのいい文章なので、映画ではその魅力を表現できない。結果、原作では影の薄いマドンナと坊つちゃんのラブロマンスにするわ、坊つちゃんが生徒を引き連れ暴れる青春無頼物にするわ、どんどん原作を壊していた。

原作の印象が強い


 『ドラゴンボール』にしても、初期は主人公が三頭身。しゃべる二足歩行の動物が登場するシュールな世界。実写にすれば違和感が出る。さらにあの映画は原作への無理解と愛のなさのため怪作になっている。  似たケースで『小さな恋のものがたり』が1972年に実写ドラマになったときも、テレビ局にファンの抗議が殺到したそうだ。主人公は二〜三頭身なのだから、監督・シナリオ・役者がいい仕事をしても、よくできた別物になってしまう。このドラマを見たことがないので、出来は不明。
 『ときめきメモリアル』の実写映画の計画が発表されたときも、反対を叫ぶファンによりネットが炎上したそうだ。たぶん、製作畑ではないコナミの上の人間が決定したのだろう。興行収入は赤字か不明だが、いまひとつ。見た人によれば出来はけっこういいうえ、原作との共通点が少ないらしい。だったらこの映画はオリジナルとして発表したほうがヒットしただろう。

古い作品のため現代性を盛り込む


 『海底二万里』も何度も映画化されているがこれも原作と離れたものが多い。原作で映像として盛り上がりそうなのは南極での酸素欠乏、大ダコとの戦い、国籍不明の軍艦との戦闘、最後の大渦巻きなどちらほらある。でも基本は冒険物ならぬ探検物なので山場が少ない。それに古びてはいないが、古い作品でもあり話も有名なので原作通りに作っても新鮮味がない。結果ノーチラス号はレーザー砲やミサイルを装備したスーパー潜水艦になっていることが多い。そして中途半端に現代性を盛り込み珍奇な作品になりがちになる。『タイムマシン』『宇宙戦争』の映画も同じ傾向だ。

商売優先


 実写化には金がかかる。「原作ファンは数万人だが、もっと多くの観客を動員しなくてはいけない」と原作がどんどん改造される。
 もっとよくあるのが安易なラブロマンスになること。顕著な例が《ティファニーで朝食を》。中篇だった原作を映画の上映時間にあわせ水増しするため、原作ではちょっとだけ登場した日本人ユニオシを出番をふやした。やり方はメガネで出っ歯のどぎついキャラがドタバタする原作のイメージをぶちこわすもの。作者のカポーティーは始め主役にマリリン・モンローを希望していたが、当時のモンローはセックスシンボル扱いにうんざりしていた。主役は180度イメージの違うヘップバーン。原作では誰にもなびかないキャバレーのホステスの自由人ホリー・ゴライトリーが、映画ではコールガールとなり主人公とくっつくラブロマンスになってしまった。題名の意味は、宝石屋で食事をするというありえないことの例えだ。なのに映画ではティファニーで本当に食事をするシーンを加えてしまった。原作破壊のひどさにカポーティーは怒り自分で撮りなおすつもりだったが、亡くなってしまい計画は頓挫。
 ジェームズ・ ヒルトンの『チップス先生さようなら』も1939年の映画は原作に忠実なようだが(すみません見てません)、1969年の映画は(すみませんこれも見てません)内容が大きく変わった。堅物のチップス先生は生徒たちに嫌われていたが、ミュージカル女優と恋に落ち結婚したことから、気さくな性格になり人気者となっていくコメディとなった。オリジナルとして見れば出来はよさそうだが、原作ファンの怒りを買いそうな内容だ。

続編につぐ続編で、原作から離れてしまう


 最大の例が007シリーズ。原作では「高い給料を払っている諜報員にデスクワークをさせるのか」とこぼすMや「世の中の変化が激しい」とこぼすジェームス・ボンドなど人間臭い面がある。今や映画版が原作と共通するはダンディーなキャラのみ。あとは秘密兵器と美女とアクションが売りになっている。原作も映画もすきだけどね。そいういえばどうすればこうも原作から変わるか不思議な1967年版の怪作「カジノ・ロワイヤル」もあったな。
 昭和45年日〜46年放映のドラマ「おくさまは18歳」も原作つき(僕はドラマも原作も見てない)だが、2クール(26話)で終了予定のところを視聴率25%のため4クール(53話)になったという。相当原作から離れたことであろう。

大人の事情


 「このタレントを売り出したいので出番を多くしろ」との圧力がかかる。俳優が過密スケジュールで撮影時間を確保できない。俳優が問題を起こし途中降板。視聴率不振のため打切り。逆に人気のためオリジナルの話を水増しして引き伸ばし。単独スポンサー、製作スタジオの経営不振で打切り。これらは原作物でなくともありうるが。
 二ノ宮知子の漫画『天才ファミリー・カンパニー』がTBSで《あぶない放課後》の題で放送されたが、原作と同じなのはキャラの名前だけで、主演のジャニーズのタレントが活躍する全然別の話。「月刊サイゾー(2005年11月号)」などの情報では(つまり二次、三次情報であることを断っておく)、同じ作者の『のだめカンタービレ』もTBSでドラマ化する話がでた。これもジャニーズのタレントを使うことにしたところ、ジャニーズから主役をうちのタレントに変えろ、主題歌をうちのタレントのものにしろと要求し、さらには話も変えようとするので、作者ともめドラマ化はボツ。その後、ジャニーズのタレントを使わないことを条件にフジテレビが製作することとなり、作者も注文を出して原作通りのドラマになり視聴率も取れた。

原作が未完結であっても完結させられる


 これはまあまあある話でしょう。原作の旬を重んじるので、名作でもなければ昔完結した原作を使うことはまずない。『医龍』のドラマもDVD販売を考えてか1クールで終わる物。原作は連載中で山場を迎える前なのに、ドラマはやや強引な形でハッピーエンドに終わった。このドラマは人気があったので続編が作られた。でも前作で強引に終わらせたため原作通りに戻すこともできず、オリジナルの話になった。

無理に盛り上げる


 原作が中盤でまったりして末尾で盛り上がる作品だとしよう。それをテレビで流すとなると視聴率で評価される。毎回まったり展開では盛り上がりにくい。まったり展開でも視聴者を引きつけることはできるがかなりの能力がいる。結果、視聴率のため原作に内オリジナルエピソードで毎回山場を作り、原作ファンの怒りを買う。
 また、テレビ番組の文法があり、一部のキャラの出番しかないとバランスが悪くなる。全キャラとはいかずとも、主要キャラの出番を作る必要がある。これで原作とのずれがでやすい。

1クールの制約


 1クールで作ることがはじめから決まっている。人気作を使い、製作者は真面目に取り組んでも、原作のいいエピソードが削られる。下手をすれば、伏線未回収、結末を迎えずに「俺たちの戦いはこれからだ」と終わってしまう。
 そしてまた別の原作が消耗される。こんなことをすれば原作不足にもなるだろう。1クールにこだわるならオリジナルを作ればいいのに、視聴率を取りたいためにヒット作を原作にしたがる。

原作がマルチエンド


 ヒットしたゲーム、特にマルチエンドのギャルゲーを映像化するとなると物語の結末は以下のパターンになる。

1 主人公が特定キャラとくっついて終わる
2 誰ともくっつかず現状維持で全員と仲良く終わる
3 オリジナルの展開
4 全キャラエンドと全エピソード盛り込み

 方法1を使い出来が良くても、他のキャラに思い入れのある人は原作破壊とさわぐだろう。それもメインヒロインではなくサブヒロインとくっついたときには非難が高くなる。まして他の方法ではもっと騒ぎかねない。特に方法4は怪作になる可能性が高い。

原作の知名度だけがねらい


 朝日新聞に連載されていた四コママンガ『フジ三太郎』が1982年に堺正章主演でドラマ化された。内容はほのぼのしたホームドラマ。当然、「原作とちがう」という声があがった。しかしだ、あの原作を忠実にドラマ化したらどうなる。政治家は腹黒く、大企業の重役は横柄と決め付ける。若い女の子は好きだけど、女性の権利尊重はまっぴらごめん。庶民のやっかみと中年親父の心情むきだしの内容だ。作者はギャグのつもりでも主人公は文句や皮肉をたれるだけで何もしない人間。ボートに乗った女性がトイレに行きたくなったらその場でおしっこしろとセクハラしたこともある。その妻も文句ばかり垂れるし、記念すべき第一話では主人公が新入女性社員の話をしただけで怒り出す異常な嫉妬深さ。主人公の母親は息子夫婦の喧嘩で妻がぶたれて泣いているのをみて喜んで友人にいいふらす陰険な性格。その夫婦喧嘩は母親を喜ばすための芝居という話だったというのだから夫婦も性格がゆがんでる。主人公の上司はあつかましいオバサンでワガママ放題。こうしたギャグが見事にすべっている(下手な鉄砲数撃ちゃ当たるで、三年に一度は面白い作品もあったが)。こんなの忠実にドラマ化したら怪作になる。
 ドラマ化を考えた人間も全国紙に載っている作品の知名度と話題性だけが目当てだったのだろう。まるで財産目当ての結婚。

 なお『フジ三太郎』は内容はつまらなくとも実用価値はあった。作中で流行した物が出てくると、「もうオジサンに知られるようになったのでこの流行の寿命は終わった」との判断基準になったそうだ。

 サザエさんのアニメも始めの頃はトムとジェリー路線の悪い意味でドタバタした今とはちがう雰囲気だった。当然ファンから「原作と違う」と文句が出た。製作者はアニメは子供のもので、今のサザエさんのように家族で見るものとは考えてなかったのだろう。まして長寿番組になるとは。結局、原作の雰囲気を活かすのは二の次になってしまったのだろう。

オリジナリティーをだしすぎる


 クリエーターならオリジナルを作りたいという思いは持っているだろう。ところが会社づとめではそうもいかない。仕事で知りもしない原作、嫌いな原作、このみでない原作をアニメ化、実写化することもあろう。すると「なんでこんな物を作らなくちゃいけない。こうなったら自分の色を出してやる」と思う人間もでてくる。この原作のどこがファンから支持されているかとは考えもしない。かくして原作の魅力を殺ぎ落とし、オリジナルエピソードやオリジナルキャラをどんどん付け加えファンの怒りを買う。クリエーターに力があっても原作の方向性と相殺される。力がなければなお悲惨。《未来少年コナン》のような成功例はまれ。
 『鉄人28号論 』( 光プロダクション監修 ぴあ 2005年)には実写映画版鉄人28号の監督の言葉がある。要約すれば「自分は原作の大ファンではないし、自分の色を出してみたい」とファンを敵にすることをいっている。結果、実写映画版は原作から遠い酷評物になった。

 スタニスワフ・レムの『ソラリス』がタルコフスキー監督によって映画化。作者は海そのものが一つの生命体というアメリカSFとは異なる地球外生命を創作し人間のコミュニケーションの限界を書いている。ところが監督の関心は人間をいかに表現するかということばかり、異世界を表現するのに手っ取り早いのでSFを利用しているだけ。原作者と監督は激しい口論となった。結果作者は映画公開時に見ることもなく、のちにテレビで放送されていたのを見たという。公平を期すため映画《惑星ソラリス》は傑作で評価が高いことをことわっておく。
 もっともレムにしても、SFの方向性を「種としての人類や社会に科学 や知識や進化がどう影響を与えるか、厳密かつ論理的に検討すること」と勝手に定義し、人の作品まで勝手な定義で批評している。名作『アルジャーノンに花束を』もレムにかかると「知性向上技術 の社会的な影響を考慮していないから駄目」になってしまう。作家としてはすばらしくても批評家としてはお粗末。そっともその作家活動も勝手に定義したSFの方向性に縛られパターンがつきたのか作品を次第に書かなくなったし。

 このタルコフスキー監督はストルガツキー兄弟の『ストーカー』も映画化している。原作者は映画化にあたり作品をリライトしたのに(リライト版はのちに『願望機』として発表)、監督は不採用。タルコフスキー監督は我が強いのでいっしょに仕事をした人は大変そうだ。

例外、原作に忠実過ぎて失敗


 『君の名は』は、昭和27年のラジオ放送の頃は「番組が始まる時間になると、銭湯がガラガラになる」といわれるほどの人気だった。それが後にNHK連続テレビ小説で放送された。往年のヒット作もさまざまな映画、ドラマ、小説で昔より鑑賞眼が肥えた視聴者の前ではストーリーの甘さ、矛盾が目立つ珍作となった。視聴率が低迷したためNHKも慌ててストーリーを変えたが視聴率はそう取れなかった。

 映画《フラッシュ・ゴードン》も原作は1930年代の古いもの。宇宙船がまちがって別の星に到着する大昔のSFでよくある設定。主人公はアメフトのスターなのになぜ宇宙の悪の帝王と戦う? 古い原作に忠実なためコスチュームも古臭い。むしろつっこみ満載のバカ映画として楽しめる代物。

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