老子語りの老子知らず


 以前、ネットの掲示板で議論があり荒れたことがあります。僕は最初から最後まで傍観者。これ自体はよくある話ですが、参加者の一人が問題をおこした人物に「そんなあなたには老子を読むことをおすすめします」と書きました。

 おいおい教養でもひけらかしたいのか? それに老子の八十章には

鄰國相望、鷄犬之聲相聞、民至老死不相往來。
隣国相望み、鷄犬の声相聞こゆるも、民は老死に至るまで相往来せず。

と近くに住んでいようが互いに行き来しない小さな世界が理想と説いてあります。なのに、なんでこの人小国寡民の思想とは正反対のネットを使ってるんだ?

 ここまで変でなくても、老子を勘違いして「無欲を説いた」と解釈している人は結構います。
 実際に文章を引用してみます。

三章
爲無爲則無不治。
無為をなせば、すなわち治まらざるなし

第五十七章
我好靜而民自正。我無事而民自富。我無欲而民自樸。
われ静を好みて民おのずから正し。われ無事にして民おのずから富む。われ無欲にして民おのずから樸(ぼく)なり。

第六十七章
夫慈以戰則勝、以守則固。
それ慈をもって戦えばすなわち勝ち、もって守ればすなわち固し。

 無為ではあっても逆説的に治めよう、正そう、富まそう、勝とうとしています。決して無欲ではないです。
 そもそも老子の作者自身が無為ではありません。有名な「大道廃れて仁義あり」の一文がありますが、「仁義」の語が使われるのは孟子以降。孟子学派に対抗しようとしています。さらには自分の主張を書物に著わし、技巧をこらし対句だらけにしているのだから完全に無為ではなくなっています。

 老子を語るほど老子の思想から遠ざかるジレンマがあります。老子を引用する人も「無理をするな、欲張るな、でしゃばるな」と老子の思想をつまみ食いして、教訓に使うのがせいぜいです。

 話は変わりますが、00年8月に大阪府泉南市で一家と見られる男女5人が餓死する事件がありました。生き残った家の主によれば宗教上の理由で外出を禁じ水だけ飲んでいたとのことです。本当に無為無欲を実践するならば仕事もできないので餓死するしかないです。

 こう書くと「おまえは老子が嫌いなんだな」と思われそうですが、むしろ逆です。実現不可能なことを徹底させているのが老子の魅力だと思います。


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